『大事にするものがほしい。』


実はこう思っている人は多いのじゃないだろうか…
あきっぽい性格だし、
ものを大事にすることが、あまり得意じゃないので、
いつも「ああ、あれね、どこかにしまってあるよ」なんて言いながら、
必要な時に全然見つからないことばかり…(TT;


今は、身の回りのほとんどが、「すぐに買い替えができるもの」だ。
使い捨てのさまざまな商品はもちろんだけれど、
無くしてもすぐに同じようにそっくりのものが、買える。
周りを見渡せばそんなものばかりだ。
大量に作られ、大量に買える、大量に捨てられる。
そういうものが、ほとんどになってくると、
「買い替えができるもの」だけしか見えなくなってくる。
きっと昔は、「買い替えができる」ことは、喜びがあったと思う。


しかし、今の時代に「買い替えができる」ことに喜びはない。
何もかもが粗末にしたりされたりする状況を見ていて、
自分までもが買い換えられてしまう気がしてしまう。
そういう時代だからこそ、
なにか「大切にするもの」が欲しい!!
考えようによっては、彼女が欲しいと欲求するのも、
「大事にするもの」が欲しいということかもしれない。


自分のように仕事の必需品としてコンピュータを使っている人は、
たぶん、かけがえのない「大事にするもの」として、
自分のマシンをかわいがっているだろう。
アクセや腕時計を「大事にするもの」として、
買い集めている人たちは、買い物というよりは、
彼女のような気持ちでアクセや時計に接していることだろう。
こういう場合は、お金で買えるけれど、
「粗末にできる」ものではないということになるだろう。
サッカーの大好きな人は、ある日観て感激した試合は、
カタチこそないけれど一生「大事にするもの」だろう。
片思いの人からかかってきた電話は、
内容の如何に関わらず「大事にするもの」にちがいない。


めんどくさかろうが、うざかろうが、
「大事にするもの」がある人は、幸せなのだ。
クールに、効率的に、あらゆるものを
「粗末にできるもの」として扱えるくらいの、
権力を持ったとしても、それは、
あんまり、うれしくないことなのかもしれない。
「粗末にできるもの」として売り出していく商品や、
会社や、人間も、あるような気がする。
そのほうが、使ってもらえる機会が増やせそうだからだ。
しかし、そこからやがて「大事にするもの」に
変化していかないかぎり、ただただ便利に粗末にされて、
結果、捨てられるだけなのだと思う。
値下げ競争だとかも、そういう目で見ると、
わかりやすいような気がする。


きっとみんなが欲しいものは、「大事にするもの」だと思う。