「空気を読む」のは凄くムズカシー。

自分もよく怒られるが、
おもに、「空気を読め」とか
「空気が読めないやつ」という具合に
否定的な言い方で使われることが多い。
他の言い方をすれば「察する」ということだ。

この「察する」という能力は、
みんな持っているものだと思う。
みんなが察し合うコミュニケーションをしてきた、と。
「察し」のコミュニケーションは、
明文化されてないルールのように、
わからない者には、なにをどうすればよいのか
判断する基準が見えないために、
なかなか定着できないにだろう。

してほしいことをハッキリ言ってください、とか、
言ってくれなきゃわからないでしょ、とか、
「察しのコミュニケーション」に
反対する立場の人の言い分は、分かりやすい。
もし、「察し派」と「明文派」というものに
分けられてディスカッションしたとしたら、
「明文派」の勝ちは目に見えているだろう。
これまでも、これから先も、
「もっと察しというものを大事にしろ」という意見は、
どんどん少数派として取り残されていくのだろう。

ところが、「少しは空気読めや、ほんまに」というふうに、
笑いのジャンルあたりから、
決してノスタルジックにではなく、
「芸人としての必須条件」として
「空気を読む」という資質が語られるようになっていた。
これまで、近代化する一方だとばかり思っていた
コミュニケーションスタイルだったけれど、
これはまさに「王政復古」みたいな現象だ。

おんなじ「バカ」というセリフにしたって、
言い方によっては、「好き」という意味にもなるし、
「かわいいヤツだな」にもなるわけで、
そういうことをわからない人に対して、
「バカ」と言ったら、
「私は、親にだってバカと言われたことないです!」
なんて怒る人もいる。

しかし、「空気を読め」ということ、
「察しなさい」というようなことって、
どうやって教えたら、空気が読めるようになるのだ?
なんでもかんでも言葉に直して、
コミュニケーションのルールを共有するという方法なら、
話し合いでなんとかできるだろう。
契約というやつは、そういう風に作るものみたいだ。
なんでも言葉にしておくってことになる。
これを極端にすると、
「書いてないことはないこと」にされてしまう。
そうなると、「人を傷つけてはいけません!」、とか、
当たり前のことまで明文化する必要さえでてくる。

しかし、どうやったら、空気が読めるようになるのだ?
「相手の身になって考えろ」だとか、
「想像力が足りないぞ!」なんていう小言も、
ずいぶん言われてきたと思うけれど、
読めないやつは読めないし、
どうしたら想像力を膨らませられるのか分からない。

きっと『言葉』が、空気を読むことのじゃまをしているのだ。
言葉と事実が一対一でしか対応できてないような
「安い言葉」が、空気を読めなくしている。

言葉を話せない犬や、海外に住むことになった子供などは、
全身にアンテナを立て、空気を読む。
そうやって、生きるためのコミュニケーションを
磨いていくと思う。

だとしたら、「空気を読め」ということを
教育するためには、
いったん『言葉』の使い方をもう一度学ぶ…
ということかもしれない。