「見えること」と「見えないこと」は、

いつも、ずっと気になっている。


人間の進歩の歴史は、
「見えない」を「見える」にしてきたような気がする。
いちいち例を持ちだすまでもないだろうけれど、
なんとか菌を見たり、空や惑星の表面を見たり、
人の身体のなかを見たり、
住んでいるところからは見えないはずの遠くを見たり、
バーチャルの世界を創っては見て楽しんだり、
なんでもかんでも見えるようにしてきた。
こういうことは、これからもずっと続くのだろう。
見えるものの世界がどんどん広がっていくときに、
どこかに見えないものが発見されたら、
そこにも光を当てたり、近づいてみたりして
見えるようにしたくなるのは、
人間の宿命みたいなものなのだろう。
北朝鮮の関わる話に、人が過剰なまでに興味を持つのは、
あの国が「見えない」ということが大きな要因だと思う。
西洋の人たちが、東洋を神秘化してきたのも、
「見えない」ものだからだろう。


しかし、ここまで何もかもが見えるようになってくると、
「見える」がゆえの怖さも生まれてきているはず。
『幽霊の正体』という意味の逆で、『知らぬが仏』というのもあるから。


何から何まで見たいと思うことも、人として自然であり、
逆に見えすぎると、見えるものへの恐怖が生まれてくる。
例えば、インターネットの発達が、
「見える」ことを増やしてくれるけれど。
これは「見る」側を増やすと同時に、
「見られる側」を圧倒的に増やすということでもあるわけだ。
いままでひっそりと暮らしていたごく平凡なひとりの人間が、
「見える」ようになってしまったら、
あきらかにその人物の人生は大きく変わるだろう。
さらに、その人間を「見る」だけだった無数の人々は、
自分もそういう「見られる」側に立つ可能性を考えて
防衛的にふるまわざるを得なくなってくる。
そう。
怖いものが多すぎるのだ。
見えることが増えた分だけ、怖さも倍増したわけだ。
見る見る見る、もっとよく見る、という進歩が、
世界をなんでも見えるようにしてきたと思うけれど、
本当は「見えない」ほうが途方もなく大きい。


見たいという気持を止めることはできないけど、
「いくら見えたって、たかが知れてる」という認識が、
現代社会の「見ちゃうぞ地獄」から身を守る方法だと思う。
だって、全部を見ること、全部を知ることなんか
できっこないんだからさ。
なんでも見てる人なんかいないし、
なんでも知ってる人なんかもいないのに、
限られた情報をネタにして、
もっともらしいウンチクを語るのは、
それを商売にしている人だけで十分だと思う。
「分からない」という当然の答えが、
どうしてこんなに言いにくい社会になったのだろう…。
「分からないで済ませる態度がいけない!!」と
言われるかもしれないけれど、
そこで「分からない」を責めている人が、
本当は一番分かってないのじゃないかな…。


そんなに「見える」ことが必要なのか…。
そんなに「見えない」ことはイケナイことなのか…。
生きていくのに必要なことが、
あんまりたくさんあるのは、ちょっとキツイんじゃないかな…。